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〔はじめに〕
交通(道路)は東西南北の町と町を結び生活文化の交流により生活を向上させる重要な役割を果たしています。 そこで当支部では「若狭」から「能登」まで下り(北上*)ながら皆さんの住んでおられる町の「ふるさと自慢」(祭・特産物・郷土料理等)を「なんでも掲示板」にどしし投稿いただき、簡単な歴史をたどりながら北陸支部の町々を紹介したいと企画しました。
何分未熟者が編集しております。誤記述も多々あろうかと思いますが、ご容赦願い、 どうぞ宜しくお願い申し上げます。
そこで、参考までに「大化の改新:中央集権改革」以後、令制(令制国一覧 )で年号・国名等が制定され国名は「漢字二文字」で表記すると定められ、五畿(畿内:大和・山城・河内・和泉・摂津)、七道(東山道・北陸道・東海道・南海道・山陽道・山陰道・西海道)を軸にそれに係る脇路(例;若狭路・能登路)沿いを国名したそうです。
ほかに「五街道」がありますが、これは徳川幕府が政治・軍事上の必要性から直轄管理(道中奉行)し関所・宿場・駅(流通拠点)等を整備した。現代の時代劇ドラマの国名や街道名は一般に下記のものとよいと思います。
五街道名 起点 終着
東海道 江戸日本橋 京都三条
中仙道 〃 近江草津で東海道と合流
甲州道中 〃 信州下諏訪
日光道中 〃 日光
奥州道中 〃 白河以北を経て蝦夷松前・函館
以後歴史が進展し分割した国(例:越の国→越前・越中・越後(加賀は越前から独立)もあります。 なお、旧国名を一文字で表する場合は州(中国の行政区画の単位)を用います。例:作州(美作)宮本村の武蔵とか、若州(若狭)・加州(加賀)・能州(能登)、越前は越州ですが、越中・越後と紛らわしいので通常使用しなっかたようです。
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下記の表は北陸支部(石川)の甲本勝俊さんがTV大河ドラマや時代劇を楽しくみるため織田信長を中心に時代背景や主な登場人部を列記したものです。 「歴史街道北陸支部」でも少しでも役立つ参考資料として付記しました。
| 「歴史の流れと登場人物の年齢と考証」 |
| 区分→ |
本能寺の変 |
秀吉没 |
利家没 |
関が原役 |
清正没 |
大阪冬陣 |
夏の陣 |
家康没 |
| 西暦→ |
西暦1582 |
1598 |
1599 |
1600 |
1611 |
1614 |
1615 |
1615 |
| 織田信長 |
年齢48 |
秀光の謀反で自刃 |
| 柴田勝家 |
60 |
(1522〜1582)秀吉の北ノ庄攻めでお市と自害 |
| 豊臣秀吉 |
46 |
62 |
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|
|
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| 北の政所 |
33 |
49 |
50 |
51 |
62 |
65 |
66 |
67 |
| 徳川家康 |
40 |
56 |
57 |
58 |
69 |
72 |
73 |
74 |
| 明智光秀 |
56 |
天王山戦いで秀吉に敗れ死没 |
| 前田利家 |
44 |
60 |
61 |
|
| 芳春院 |
35 |
51 |
52 |
53 |
64 |
67 |
68 |
70 |
| 前田利長 |
20 |
36 |
37 |
38 |
49 |
52 |
|
| 玉泉院 |
8 |
24 |
25 |
26 |
37 |
40 |
41 |
42 |
| 前田利常 |
|
5 |
6 |
7 |
18 |
21 |
22 |
23 |
| 玉姫 |
|
1 |
2 |
3 |
14 |
17 |
18 |
19 |
| 宇喜多秀康 |
9 |
25 |
26 |
27 |
38 |
41 |
42 |
43 |
| 豪姫 |
8 |
24 |
25 |
26 |
37 |
40 |
41 |
42 |
| 石田三成 |
22 |
38 |
39 |
40 |
関が原の役で敗れ死罪 |
| 豊臣秀頼 |
|
5 |
6 |
7 |
18 |
21 |
22 |
| 千姫 |
|
|
2 |
3 |
14 |
17 |
18 |
19 |
| 淀君 |
15 |
31 |
32 |
33 |
44 |
47 |
48 |
| 上杉景勝 |
27 |
43 |
44 |
46 |
56 |
59 |
60 |
61 |
| 直江兼続 |
22 |
38 |
39 |
40 |
51 |
|
| 島津義弘 |
44 |
60 |
61 |
62 |
73 |
76 |
77 |
78 |
| 毛利輝元 |
29 |
45 |
46 |
47 |
58 |
61 |
62 |
63 |
| 加藤清正 |
20 |
36 |
37 |
38 |
49 |
|
| 千利休 |
53 |
|
|
|
|
|
|
| 古田織部 |
38 |
54 |
55 |
56 |
67 |
71 |
|
| 福島正則 |
21 |
37 |
38 |
39 |
50 |
53 |
54 |
55 |
| 伊達政宗 |
15 |
31 |
32 |
33 |
44 |
47 |
48 |
49 |
| 結城秀康 |
8 |
24 |
25 |
26 |
(1607病没) |
| 徳川秀忠 |
3 |
19 |
20 |
21 |
32 |
35 |
36 |
37 |
| 東福門院 |
|
|
|
|
4 |
7 |
8 |
9 |
| 徳川家光 |
|
7 |
10 |
11 |
12 |
※朝倉義景・・・1573年織田信長の朝倉攻めで敗れ斬首死没
※結城秀康・・・徳川家康の正室「築山殿」の従女「お万の方」との子で豊臣秀吉の養子となり下総の守護大名結城氏に入嗣した。 関が原の役後、越前「福井城主」となり「松平秀康」と改名
平成14年12月14日 甲本勝俊 作成 
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| 《福井県(若狭・越前)》 |
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【若狭路(街道)】(京都⇔小浜:国道162号)
「京の七口
」の一つで八瀬・大原から南丹後を下り(北上)小浜市
に至る路で古くは小浜から舞鶴を抜け山陰道また、敦賀を経て北陸道に通じる要路で若狭湾の朝取れ鯖を京へ運んだことから別名「さば街道」」ともいう。(ほかに、日本海の産物を運ぶ路としては富山⇒高山「ぶり街道」:国道42号)・糸魚川⇒長野「塩街道」:国道18号がある)京都府から福井県に入る前(美山町)に100軒余りの「茅葺の里(全民家が茅葺屋根)」(指定文化財)という集落(画像下)があるが、ここはまるで絵本かTVの「にほん昔話」にでてくるような風景がみられる。特に春と秋がが良いそうだ。 ここを過ぎると若狭国に入る福井県は嶺南・丹南・奥越・福井坂井に地域区分している.
※北陸道はおおよそ500数十km(京都⇒新潟)
茅葺の里
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@嶺南は若狭国である。古くは 若狭国は北條氏の支配下であったが織豊時代は高浜城に信長の直臣溝口秀勝(大聖寺・新発田藩主)・秀吉の家臣山内一豊(掛川・高知藩主)・木下利房と続くが1600年「関が原の戦い」で小浜藩主木下勝俊ともども西軍に属したため除封され、代わって近江大津から京極高次が入封し、京極高次が城を小浜に移し若狭一国を領有し京極高次が出雲松江城に移封された後、幕府の重臣酒井忠勝が武州川越藩から11万3千石で譜代大名として入封し明治3年、越前鞠山藩(1万石)を合併し廃藩置県まで続いた。
{付記}若狭国の国府は律令(りつりょう)制度に伴って一国ごとに置かれた国司の役所であるが、若狭国府の位置は諸説あり、明確になっかたが2006年12月小浜市「太興寺」から東市場にかけての西縄手下(にしなわてしも)遺跡で、8世紀末の奈良時代終わりから平安時代初めにかけて、若狭地方を治めた国府跡と推定される遺構や出土品が見つかった。
小浜市が平成18年12月8日に発表し、「所在が確認できなかった若狭国府の可能性が高い」としている。
若狭路の小浜市を過ぎると滋賀県境の近くの若狭町(平成17年3月美方町と上中町が合併)に至るがこの町には、平成8年文部省の指定を受けた重要伝統的建造物群保存地区である若狭「熊川宿」がある。kumagawajyuku.jpg
へのリンク北陸支部内の主な宿場町は、越前国府:府中(武生)・芦原・加賀国府(小松)・能登国府(七尾)があるが北陸道で宿場町としての古い町並みの景観が残っているのはここだけと思える。一度訪ねてみたいと思っている宿場である。http://www.hokuriku.ne.jp/matsumi/ipk15.html
福井県嶺南地区は日本一の「原子力発電所」王国である。その生産電気エネルギーは殆んど関西の産業のエネルギーであり、新幹線・電車を動かし住民の生活を潤うしてている。その見返
りといってよいか悪いか判らないらが、敦賀市をはじめとする嶺南地区はインフラが充実している。
産物としては若狭湾の豊富で新鮮な魚貝類である。「小鯛の笹漬け」「越前蟹」「各種干物」といろいろ有るが、何といっても若狭湾の「トラふぐ」(一部養殖」)であろう。河豚が大型で、民宿で食べると安くて美味い!
小浜市へ行くと言語は「京都弁」の訛りである。「鯖街道」による京都との交流のせいであろうか。 古い国宝級の神社(若狭彦神社)や寺々も数多くある。土産品店をのぞくと「若狭めのう・塗り物・和紙」が目に付く、若狭湾観光は「船観光」「観光ドライブウエイー(レインボウー)」「三方五胡船廻り」もよい山の幸も豊富である。小浜を過ぎると旧北陸道(国道27号線)となるが、夏の海水浴場の多い「美浜町」を通り抜けると「敦賀市」に入る。敦賀半島(湾)にある敦賀は古くから大陸との交易の港として栄え、小高い山に「金ヶ崎城跡」」がある。信長が越前「朝倉義景」攻めの時信長の妹「お市」が嫁いだ近江の「浅井長政」が朝倉との同盟で、浅井が朝倉に味方し織田信長ただ一つの負け戦と知り敗走したところで、秀吉がシンガリ役を無事務め「功名」あげたところだ。秀吉時代には敦賀城主として「大谷吉継」となり、「関が原の戦い」で盟友「西軍石田光成」に味方したが敗れ自害、関が原後は領地没収となり小浜藩のの領有となった。
敦賀半島の突端には原子力発電所があり、また1962年に完成したJR「北陸トンネル13.8q敦賀⇔今庄)」は当時日本最長のトンネルであった。トンネル工事中に温泉が湧き出し、当時「トンネル温泉」として話題となって賑わっていたが、現在はどうなっているのかアー?敦賀の産物はは若狭湾同様海産物であり、カマボコ・鯛の笹漬が有名であるが、昔から北海道との交流が深く、冬の郷土料理に大根と人参それにニシンを重ねて麹漬けした、金沢の「かぶら漬け」似た漬物(名前不詳)は美味である。また敦賀の街には太公望の民宿が多く民宿を利用することで郷土料理を味わえると思う。
敦賀には日本三大松原(三保・虹松原)の一つである 「気比の松原」があるが、海岸の松が1万1000本樹立してる美しい海岸である(画像左)。 若狭地区は毎年夏季にはると奇麗で豊富な海水浴場をめざし京阪神・中京方面からの海水浴客で北陸道・8号線が自動車渋滞する。
<敦賀空襲>敦賀市は第二次大戦に日本海側の都市で初めて米軍の空爆を受けた都市である。1945年7月12日深夜焼夷弾爆撃を受けた。空爆目的は敦賀市は朝鮮との定期連絡港で機雷投下により敦賀港を封鎖するのが目的だったとか、空爆は夜間低飛行で来襲し焼夷弾爆撃した。その被害は市全体の7割におよび4120世帯が焼失し、1900/31000人が犠牲となった。7月30日と8月8日にも小規模の空爆あったが これは東洋紡敦賀工場へ原子爆弾の模擬弾による投下訓練(新潟市の原爆投下?)だったらしい。
さて敦賀からは現在の「北陸道」となるが、ここからは国道「8号線(京都⇔新潟)」・高速「北陸道」(米原⇔新潟中央)を軸に下って行くが、この若狭地区には6名の明和会員が健在である。
次回は越前:丹南地区越前市(武生市)に入る。(若狭国について詳しくは明和会「北陸支部HP」福井県の紹介検索で!)
※「越前・加賀・能登の一宮」
※嶺南出身の有名人
・水上勉(作家:おおい町) ・五木ひろし(歌手:美浜町)
・山口良治(美浜町:京都伏見工業高ラグビー監督)
・大和田伸也・獏(俳優:敦賀市) ・川藤幸三(小浜市:元阪神タイガース・野球解説者)
・紅 夜叉(小浜市:元女子プロレスラー)
●他に宗教問題で芸能界を追放されたアイドル歌手「桜田淳子」が敦賀市に在住とか?
また女優の「浜 美枝」が小浜市に別宅があり、季節的に在住する。
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A丹南地区
越前国の南部で敦賀からトンネル(JR・北陸道・8号線)を抜けると、今庄、南条、武生、鯖江、福井と辿るが、平成の市町村合併で地域の説明が難しいので国道8号線を中心に旧市町村名で訪ねることとする。
越前の国は荘園時代の「紫式部」から戦国期にいたるまで数多くの歴史の語るところが多いところですが、道のりの都合上時代を前後する。
8号線河野村から分かれる305号線は日本海沿岸の美しい「国定公園」である。河野村は「北前船」の停泊する船宿もあり賑やかな村だったと言われている。 大正13年12月12日、日本海軍特務船「関東(ロシアとの日本海々戦の戦利艦)」(乗組員150名)は下関港から京都府の舞鶴の海軍港に向かっていたが、日本海特有の低気圧発生による大雪まじりの大シケに遭遇し進路を見失い目的地舞鶴港から75キロ離れた河野村海岸の岩礁に激突座標し沈没寸前の危機でこの危機を発見した小学生が村の村長に通報したがこの時季働き盛りの男子は杜氏として他府県に出稼ぎに出ており救助には困難を極めたnan-kantou07.jpg へのリンク。然し河野村の留守をしている婦人達が救助にあたり勇気ある猛烈なる活動をした。寒突風・吹雪の海から助けを求めて這い上がってくる乗組員を引き上げ自分の肌で温め献身的な救助活動を行ったにもかかわらず、97名の犠牲者がでたが、当時日本国中に越前女性の心意気と感動をもたらした出来事であった。
平成9年1月早々ロシア船石油タンカー「ナホトカ号」が島根県沖合いで破断沈没し多量のC重油19万キロリットルが潮流にのり北上し冬季の強い北西の風にあおられ海岸に漂着した。重油の流出は奇麗な日本海の自然を汚染し漁業・観光産業に大被害を与えると環境庁・報道機関から報じられた。1月7日には「ナホトカ号」の船首部分が三国沖合いに着底した。
重油が漂着する海岸の地域では官民あげて重油の除去作業あたった。 この時ある報道機関が河野村の特務船「関東」の沈没の救助の記事が載り、「阪神・淡路大地震」の影響もあったのか、この重油除去作業に全国からボランテアが参加し大方処理できた。この重油流失は当北陸支部の沿岸(福井県は12市町村)のみならず島根県沖合いから秋田県の沿岸まで多大な被害を与えた。
この年の夏は砂浜の海水浴場には大豆くらいの重油の固まりが散見されたが現在は美しい越前・加賀海岸国定公園に蘇っている。
少し横道に入ったが河野村から東に8号線に戻ると越前市(武生市)である。
越前市(旧武生市)は律令時代の国府の所在地であり、10世紀末越前国の国主で藤原為時の娘「紫式部」が約2年間住んでいたと記録にある。
室町時代には越前国の守護所は武生に置かれ「府中」と呼ばれていた。戦国期、織田・徳川連合軍が近江の「姉川の戦」で浅井・朝倉連合軍に家康軍の活躍で大勝利したものゝ織田信長は大阪の石山本願寺と北陸の一向宗の抵抗勢力に手を焼いていた。
北陸の一向宗の鎮圧には織田家筆頭家老の「柴田勝家」を主軸に佐々成政・前田利家・不破光治等が奮戦活躍し鎮圧した。信長は柴田勝家に「北ノ庄(福井)」の城主に府中城(画像は城の遺構として正覚寺に移築された山門) に前田利家・小丸城に佐々成政・龍門寺城に不破光治が配置され府中の要所で初めて城主(陣屋又は館:府中三人衆)となっている。
「明智光秀の三日天下」の後「織田家の跡目相続」争そいで勝家・秀吉の天下取りの戦いが、よくNHKの大河ドラマに出てくるのはご承知の通りである。柴田勝家が秀吉に敗れた後、信長の家臣「丹羽長秀」が越前(一部除く)と加賀の一部を領有したが長秀の病死後、秀吉の配下の小大名が領有した。
「関が原の戦」後、「北ノ庄藩(福井)」に徳川家康の二男「松平秀康」が入城すると武生周辺には「高森藩(2万石)」に本庄(松平}宗長・「丹生藩(3万石)」松平頼職が城主となっている。(丹生藩は松平頼職が和歌山藩主として転出したので一代限りで廃藩)松平頼職が転出後は福井藩付き家老の本多氏の城下町(5万石)「関が原後」の徳川幕府は越前国の大名をすべて親藩・譜代の大名を配置している。多分120万石の外様大名の大藩「加賀藩前田家」の上洛・謀反を阻止するための政治・軍事的目的の布陣である。この体制は明治4年の廃藩置県まで続いた。
さて、この武生にはどうしても記さなければならない人物がいる。 s21年8月旧明治生命保険株式会社の第8代社長「牧野亀治郎」(元会長・故人)氏で武生市の出身(左下画像はs31年頃の牧野元会長)である。
牧野元会長は「武生郷友会(武生市出身の在京学生が育英教育を受ける施設)の英才で慶応大学から明治生命保険会社に入社し敗戦後の混乱期に当時総務部長の職にあった牧野氏は会社の立て直しに貢献したと聞いている。明治保険会社の経営陣のほとんどが「公職追放」され、そのうえ本社「明治生命館」はGHQと極東空軍司令部に接収(s31年まで)され、そのご苦労は大変だったと思う。 s22年7月9日新生「明治生命保険相互会社」の社長に就任し翌日「公職追放」となり、翌年s22年5月「公職追放」が解除となり社長に復帰している。
以後、営業・販売組織の改革・契約者の保全管理、時代にそくした新種保険を開発し生保業界のリーダー的な役割りは大いに評価される。

市街地の西方を山越えすると305号線の日本海「越前加賀海岸国定公園」でる。
<武生の特産物>
伝統産業として「越前打刃物(特に鎌)」・「和紙」・「蚊帳」・「手打ちそば」近年は「電気機器」・「繊維」・「プラスチック加工」等
<武生出身の有名人>
・加古 里子(児童文学者 ・いわさき ちひろ(児童画家)
・俵 万智(歌人) ・池上 遼一(漫画家)
・谷口 雅人(構成作家)
<行事・祭>
・10月〜11月中央公園で開催される「菊人形展」は大阪府枚方市の「菊人形展」と同様有名
・他に「紫式部祭」(紫式部公園)がある。
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鯖江市
鯖江といえば「眼鏡枠(フレーム)」である。全国の眼鏡枠の90%以上を生産している世界の3大産地として有名である。
古くは浄土真宗「鯖江本山誠照寺」(右画像:親鸞ゆかりの寺)の門前町として栄えていたが江戸時代中期(1720年)越後村上(5万石)から間部詮言(マナベアキトキ)が譜代として転封入部し陣屋(5万石)を築き、以後城下町として発展した。当支部内は全国有数の繊維の産地で知られているが鯖江は絹・人絹・合繊織物、また東部の河和田では漆器を産する。
他に特筆するならば鯖江市が多目的型のドーム体育館を建設し、1995年アジアで初めて「世界体操選手権鯖江大会」が開催されている。
上記武生(越前)・鯖江地区にはそれぞれ1名の会員がいるが少しさびしい気もする。
<鯖江の有名人>
近松 門左衛門(1653〜1724年浄瑠璃・歌舞伎作家)※鯖江に生まれ幼少時まで過ごす。
・藤田 晋 (実業家:「サイバーエイジェント」社長)
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B奥越地区
鯖江市の隣は福井市であるが国道8号線をはずれ北東の岐阜県よりの大野市・勝山市・永平寺町方面を訪ねる。
大野市は1575年越前国を織田信長が平定後大野一帯は信長の武将、金森奈長近が治めることとなり、その居城を大野亀山に構築し更に城下町を建設し大野の基礎を築いた。(画像はs43年復元大野城)金森長近が飛騨高山転出後、織田秀雄が城主のとき1600年「関が原の戦い」で西軍に与したため除封となりその後へ福井藩主松平(結城)秀康の重臣土屋正明城主なったが、その後めまぐるしく城主交代があり、1682年土居利房が常陸国下妻から大野に入部し、4万石の譜代大野藩主に封ぜられ8代、約190年間財封した。明治元年大野藩は明治新政府に上地し「戊辰戦争」には洋式訓練した藩兵を凾館へ派兵している。
大野の町は九頭龍川上流の大野盆地にあり中心街路は碁盤の目状で、地下水が豊富で街中各所に「清水(ショウズ)」がわき水路が発達して風光明媚で越前小京都と称されている。
また400年の伝統を誇る七軒通りの日本三大「朝市」が有名である。(上質のサトイモが美味しい)産物としては「奉書羽二重」の産地で、合成繊維を主軸とする繊維工業が盛んで、近年は大手の電気機器メーカーも進出している。
<大野市の有名人>
・大徹忠晃 大相撲力士 小結「大徹」
・竹内 均 学 者 東京大学名誉教授
・橋本真由美 実業家 最近話題のパート社員から「ブックオフ」の取締役社長
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池田町
九頭龍川の支流足羽川上流の山間地にあり大野市と岐阜県境に接する小農山村集落が散在する。
大野市との境に福井県内最高峰の部子山(ヘコヤマ1464b)がある。
元京都支社長:岡 正彦氏(故人)は池田町の出身。
主な産業は林業で木材・米・なめこ・山菜食材など産する。
特産品・・・ミディトマト・地酒「冠泉」・そば
国指定重要無形民俗文化財「水海の田楽能」http://www.nonkina-okome.com/image/ikeda/mizuumi-dengaku-noumai/dengaku-index.html
勝山市
日本三代名山「白山(2702m)」の登山口は越前・加賀・飛騨の三ヶ所にある。
越前側の登山口は勝山の「白山平泉寺」からである。平泉寺はその昔(720年)「泰澄田大師創建した神仏一体の社である。室町時代には9万石の寺領を有し48社・36堂・6000坊・僧兵8000人と政治・兵力的に黄金期を向かえ更に京都比叡山の延暦寺の末寺となり勢力を拡大した。しかし、一向宗の台頭により壊滅し豊臣・江戸時代には復興したものの明治j初期の神仏分離令により「白山神社」のみとなった。
この平泉寺には「木曽義仲の戦勝祈願」の寄進・源頼朝に京を追われた「義経・弁慶の一行」の一宿・平泉寺の悪行僧「東尋坊」の乱行と伝説にまつわる寺社でもある。
04年秋、初めて平泉寺を訪れたがこの年二度の台風で本殿(画像右)の瓦は飛び散り荒廃していた。
礼拝後、、本殿の中を覗いたら「昭和天皇・皇后」の御真影(写真)が飾られていた。(ご神体?!)
なお、平泉寺は夏季のお盆前に行くと付近一帯が整備され静寂感があり美しいそうである。
織田信長が越前を平定し、勝山は秀吉時代の天正8年(1580年)柴田勝安が築城し地名も「勝山」と改名し柴田氏が滅亡した後、成田重政・長谷川秀一が城主となったが、柴田勝家が滅びた後、越前「北の庄(福井)」8万石で福井周辺を領有した青木一矩は1600年「関が原n戦」で西軍に属したため徐封され、代わって越前国は徳川家康の第二子「結城(松平)秀康」が下総結城10万石から越前一国68万石を勝山周辺を含め領有したが、1624年松平秀康の五男直基が3万石で入部し、直基が越前大野転じたため秀康の六男松平直良が木本藩から入部したが直良も越前大野に移封し、勝山藩は福井藩の預かり地となり、しばらくして天領となり代官が配置された。
1691年小笠原貞信が美濃国高須から2万2千石で入封し「勝山藩」が確立し小藩ながら格式の高い譜代大名として1871年(明治4年)廃藩置県まで在封した。
勝山市は九頭龍川の中流に位置し、江戸時代の元禄期「刻みタバコ」の産地として知られた。明治以降盛んになった「福井機業地帯」に属し絹・人絹織物工場が多い。
毎年2月4日に行われる「勝山左義長まつり」は300年以上の伝統もつ行事(画像下)で有名である。

<越前大仏(大師山清大寺)と勝山城(博物館)>

左上画像は「越前大仏」(s62年5月)、右上画像は「勝山城博物館」(h4年7月)である。現代の建築技術で建設されたもので歴史建築物に基づいて復元されたものでもないし観光建造物としても現在ののところあまり重宝されるものでもないが、ただ、一個人が私財を投じて勝山市に寄贈した。その金額は60億円とか100億円とも言われている。その個人とは「多田 清(城の完成を観ず故人)氏である。多田氏は勝山市出身でs6年大阪で相互タクシーを設立し、s13年「多田式木炭j自動車」を営業し、s41年には「相互不動産」を設立し「大阪万国博覧会」・「バブル経済期」に莫大な財産をなしたと聞いている。また多田氏は関西タクシー業界の大御所でもあった。
越前大仏は巨大な建物もさることながら、高さ17b日本最大の大佛本尊で、中国、洛陽市[龍門奉先寺」
座像をモデルに造られ、殿内には1281体の種々様々の仏像が納められ目を見張る。また境内の五重塔は75bと日本一の高さだそうだ。
現在、越前大仏は宗教財団法人「臨済宗 妙心寺派 清大寺」となっている。
隣接する勝山城は石垣から鯱まで高さ57.8bの5層6階日本一高い平成の新城である。福井県では後で後記するが、日本一小さい城郭「丸岡城」と勝山城の2城郭となった。
多田氏から寄贈された勝山市は全国から集められた刀剣・鎧・兜等貴重な文化遺産を展示し、他に科学館や資料館もある。大佛や城郭は管理しだいで、今後50年、100年先には昔の高僧(宗教)や武将(政治)が造った寺社仏閣や城郭と同様20世紀後半に一個人が建立した重要で立派な文化・観光施設となることであろう。
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永平寺町
平成18年2月福井市に隣接する吉田郡は2町1村が合併し「永平寺町」となった。町は九頭龍川に平行して国道416号沿いにあり「曹同宗 大本山 永平寺」(左画像)・吉峰寺があり福井大学医学部・福井県立大学など学術機関立地し農林業を中心に福井市のベッドタウン化している。
1645年旧吉田郡松岡町には三代福井藩主松平忠昌の次男松平昌勝は父の領有した松岡周辺の5万石を分与され「松岡藩」として立藩したが、二代目の昌平(宗昌)の時代に福井藩主に転出したため廃藩となっている。。
ご承知の永平寺は1224年「道元禅師」により開創された「日本曹洞宗」の第一道場で出家僧の禅道場である。境内は約10万坪、樹齢約700年の老杉に囲まれた静寂の中に70余りの七伽藍・70の殿堂楼閣が立ち並でいます。1500の末寺と檀信徒は800万人といわれている。
<特産物>
・永平寺そば ・永平寺胡麻豆腐 ・楽器:ハーブ(日本でハーブを製作しているのは永平寺町:旧松岡町のみ)
禅修業は一般人も受けることができ、実業家やスポース選手も修行を受け悟り、事業に成功した実例が多数ある。元読売ジャイアンツの川上哲治監督もこの寺で禅修業うけプロ野球日本一のV9を達成した。
この奥越地区には明和会々員は現在、残念ながら皆無である。
※北陸支部ホームページ「福井県の紹介」の画像は同寺「勅使門」
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C福井市
<一乗谷城>
永平寺からやや西南福井市城戸ノ町(一乗谷)の「朝倉(義景)遺跡」へ向かう。
福井市を南北流れる足羽川の支流一乗川に沿った谷あいが一乗谷で、その東側に一乗谷城が築かれていた。
越前国の國府は府中(武生)から南北朝・室町時代の幕府「管領筆頭守護職」の斯波義敏は越前の守護職も兼ね越前の守護代として甲斐氏が務めていた。
朝倉(廣景)氏は平安末期には但馬国(兵庫県)養父の住人で、越前の守護となる足利(斯波)高経の被官となり斯波氏に従い越前国に入部した。
1467年(応仁元年)足利将軍の家督争いで勃発した「応仁・文明の乱」では斯波氏は東軍細川勝元、甲斐・朝倉氏は西軍山名宗全に属し、戦が長期化し決着つかず朝倉教景は越前に下向した。
しかし東軍細川勝元が勢力を盛り返したのを機に朝倉教景は東軍に寝返り甲斐氏を幾たびか攻撃した。この乱で室町幕府は権力が失墜し「荘園制」は崩壊した。
崩壊すると在地の武士勢力が台頭し戦国大名の領国化が進み戦国時代に入った。
東軍に寝返った考景は斯波氏と協力し西軍派の甲斐氏と越前で数回の合戦で勝利し、斯波氏の内紛に乗じ、事実上の越前国の守護大名(国主)となり守護所は府中(武生)から一乗谷に移った。
以来、朝倉一乗谷館には荒廃した京都から逃れた来た公家や高僧を保護し、京文化が浸透した。朝倉氏は初代広景から朝倉義景が信長に滅ぼされるまで五代103年続いたが、義景の時代、室町幕府最後の16代将軍「足利義昭」や「明智光秀」が寄留している。
朝倉義景(浅井長政と連合軍)は姉川の合戦で味方の裏切りで大敗し、信長は更に一乗谷城に進攻し城に火を打ち、その火は三日三晩燃え続いたたと言う。
義景は越前大野に逃れ自害し、子の朝倉景鏡は信長に降伏したが義景の一族は今庄・帰里で処刑され朝倉氏本家103年の栄華を極めた血筋は1573年に絶えた。
義景の墓所は大野市泉町の桜の名所にある。
朝倉館跡の唐門の桜
画像の「唐門」は豊臣秀吉が朝倉義景の善提を弔うために寄進したものと伝えられ、門の表には朝倉家の「三ツ木瓜」紋を裏には豊臣家の「五三の桐」紋が刻まれている。
城下町跡には武家屋敷・寺院・町屋・職人屋敷や道路に至るまで町並がほぼ完全な姿で発掘・復元され、国の特別史跡・特別名勝に指定されています。
現在でも文化庁による発掘調査行われていると思います。
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北ノ庄と福井(福居)城
<北ノ庄>
朝倉義景を倒した織田信長は越前国を制圧したが、信長の最大の敵は戦国大々名よりも、石山本願寺・伊勢長島・近江・越前・加賀の「一向一揆」衆であった。「一向宗一揆」衆は親鸞聖人(浄土真宗)による寺地(門前)町に居住する民百姓または一向宗を信奉する土豪・有力者の自治体集団である。yosizakigobouezu.jpg へのリンク(吉崎御坊)越前・加賀の一向宗一揆衆は北陸の本拠地「吉崎御坊」をめぐり朝倉氏と激しく争っていたが、将軍足利義昭の調停で和議・休戦状態にあったが朝倉氏が滅亡すると越前・加賀・能登の一向宗一揆衆は激しく熾烈極まりなく織田軍に戦いを挑んできた.。
越前・加賀の一向衆は20万とも30万人とも云われているが、構成は民百姓と現制度に不満のある一向宗に信奉した土豪の武士集団である。
信長は「越前一向」衆を柴田勝家を筆頭に前田利家・佐々成政・佐久間盛政らの信長「武装軍団」が一向宗徒を信長独特の殲滅作戦で根切(皆殺し)にし越前国を平定した。
越前一国を領有した信長は越前国を前田利家・佐々成政・佐久間盛政等を与力として柴田勝家に委ね、越後の上杉謙信の上洛を阻止するため北陸(加賀・能登・越中)の平定を命じた。
越前の国主となった勝家は天正3年(1575年)「北ノ庄」(現福井市中央町1柴田神社跡)」」」sibatajinnjya.jpg
へのリンク)に築城した。
勝家は加賀の一向一揆を平定し、天正10年3月(1582年)越中魚津城で越後の上杉景勝と交戦中に明智光秀による「本能寺の変」が起こり織田信長は本能寺で自刃した。
柴田勝家は京都に引き返すことが出来ず、信長の跡目相続で秀吉の巧みな調略で先手を取られ、相反目し勝家(61歳)は信長の妹「お市の方(39歳)」と(浅井長政との三女茶々・お初・お江)岐阜で政略再婚し北ノ庄に戻り信長の後継者争いで秀吉と再度相対した。
しかし柴田勝家と羽柴秀吉の対立が再度激化し、戦となり勝家は「賎ヶ岳の戦」で大敗し北ノ庄に戻り、娘三人を秀吉の計らいで山内一豊に託しお市の方と城に火を放ち自害した。sibatahaka.jpg へのリンク(福井市西光寺にある勝家とお市の方の墓所)
<福井城>
天下を目前にした秀吉は北陸を勢化におき焼失した北ノ庄に「丹羽秀長」に委ね、要所には秀吉配下の小大名が分割支配した。丹羽秀長転出後、秀吉の遺命で甥の「青木一矩」が「北ノ庄」8万石城主となったが、1600年「関が原の戦い」で西軍に属し病死したので除封となり、代わって下総国から関東の名門、結城秀康(松平秀康:越前松平の祖)が「関が原の合戦」の論功行賞で越前一国68万石で親藩大名として入封した。
秀康は徳川家康の二男である。生母は家康の正妻「築山殿」の付け女中の「於万」で徳川二代将軍秀忠(家康の三男)と異母兄弟である。秀康は幼少時に秀吉に人質にとられ、後、養子(秀吉の秀と家康の康の一字を取り秀康?)となったが秀吉に茶々との子「鶴松
」が出来たため鎌倉時代から名門の結城氏の申し出で養子となり10万1千石の大名となった。
秀康は北ノ庄の焼失した跡地に1601年から6年の年月をかけて築城し城下町を整備を急ぎ藩庁とした。慶長9年(1604年)結城姓から松平姓に復している。北ノ庄の名前が縁起が悪いとかで「福居城」とした。fukuijyou.jpg へのリンク後(天守閣跡地に県庁々舎)後年三代目の松平忠昌の時代に城中に「福の井戸」(画像右:現存)があることから「福井城」としたとの説がある。(現在城跡には福井県庁・城祉公園がある)
福井藩は親藩であるが御三家・三郷にも匹敵する存在であったが、家督相続や六代藩主綱昌が病で藩政も不振となり幕府から藩領を32万石に半減されて数藩に分かれた。以来一揆・騒動多発し藩政も好転せず、藩の再建を担って田安家(三郷)から慶永(松平春岳)が藩主となるが幕末期・明治維新をむかえ廃藩置県まで17代茂昭まで在封した。
<福井市>
福井空襲
福井市は太平洋戦争で昭和20年米軍による「福井空襲」と戦後昭和23年の「福井大地震」にあい2度も壊滅状態に遭遇している。 1945年7月19日22時ころ米空軍戦略爆撃機B29(左画像)が120機余り来襲した。小規模都市としての爆撃には大規模の編隊であった。市外の周囲を照明弾投下し、照明弾の内側を9500発の油脂焼夷弾を投下したとされている。
その被害はさんさんたるもので市街地の95パーセントを焼き尽くし1600人余の死者をだし一夜にして壊滅した。
福井地震
1945年(昭和20年)8月、日本は連合国軍に無条件降伏し終戦となり日本全土戦争被害の復興に懸命であった。福井市は特別戦災復興指定都市で戦後復興期の半ば、1948年6月28日午後4時過ぎ福井市の北方平野部の比較的浅い坂井市丸岡町付近を震源とする直下型地震M7.1(当時としては過去最大)が発生した。この地震は平成7年(1999年)1月17日に発生した「阪神・淡路大地震」次ぐ直下型地震だった。
地震災害の概要は死者3,769名(負傷者2万名余) 倒壊家屋36,184戸 半壊家屋11,816戸 焼失家屋3851戸の大災害であった。 丸岡城は倒壊し(右画像)、大和百貨店福井店(本店金沢)の6階建てビルの一階部分は潰れdaiwafukui.jpg へのリンク多くの犠牲者を出した。
この地震は隣の石川県の南部加賀地区(現加賀市)にも被害があり、金沢市では震度4を記録している。いずれにしても、当時としては大地震災害であった。
福井市は空襲からわずか三年たらずで再びj地震で破壊した。福井市は城下町でありながら二度の災害で松平秀康以来270年間築き上げた「城下町」の面影は全く失った。あるのは史跡の標識だけである。
余談ではあるが、福井地震からしばらくして東京大学の地震学者(名前は忘れたが×××左衛門のよな名前だった?)が「越後地震説」を発表したのを憶えている。福井地震の直後でもあり北陸地方のみならず全国的に話題となったが反論する学者もあり、また世論もあまり受け入れなかったが、越後地震説は時が経つごとに話題から忘れられた。
しかし、福井地震から26年後の昭和39年(1964年)6月16日に」新潟地震(M7.5)」また一昨年の平成16年(2004年)10月23日に「新潟中越地震(M6,8)」が同じ北陸道で発生した。現在も学者による地震発生予測地帯が発表されていますが「越後地震説」から半世紀以上経た現在、地震科学・危機管理体制も進歩しています政府・学者を信じましょう!
福井市の西方日本海に面した旧越廼村地域平成18年2月1日福井市と合併した。305号線は「越前加賀海岸国定公園」である。蟹の季節になると民宿や食堂が賑やかになる。「水仙ドーム」・「水仙ミュージアム」・「水仙温泉」などがある。
福井の産物
福井は古くから主に羽二重・人権織物の繊維産地で現在は合繊繊維が主力で、繊維の関連業種が集積した総合産地となっている。特に細幅リボン・羽二重織物の生産出荷第1位である。機械・プラスチック工業も盛んである。
農業も盛んで約40数年ほど前、福井市にある県農業試験場の技官が農林1号との交配で米の新種「こしひかり」の開発に成功した。開発に成功した技官は新種の作付を試すことなく翌年、新潟県農業試験場へ転勤となった。
技官は福井で開発した新種の作付実験を信濃川流域の稲作に適さない魚沼郡西川村の田地で作付実験し成功した。この米は生育も早く収穫量も多く甘味があり美味しくコシヒカリと名ずけられ作付け農業者の収益をもたらした。
美味しい米「こしきかり」は新潟の特産米として新潟から出荷されたが、こしひかりは福井が開発したものである。
食べ物では羽二重餅・越前おろしそば・水羊羹(冬季)等が知られている。
福井市のシンボル建築物
福井地方・家庭裁判所です。
説明は下記URLをクリックして下さい。
http://www.courts.go.jp/fukui/about/syokai/index.html
※福井市のシンボルマークは「不死鳥(フィニックス)」
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D越前加賀海岸国定公園の市と町
福井県敦賀市杉津から石川県加賀市尼午前岬の約100キロメートルの海岸が1968年国定公園に指定された。
南越前町の河野町断崖海岸・越前岬の隆起断丘と海食洞や岩礁・東尋坊・松島の海食断崖・吉崎や塩屋付近の砂丘・尼御前岬の砂岩の海食景観等・・・である。
南越前町
平成17年1月1日。南条町・今庄町・河野村が平成の大合併の新しい町である。

南条地区は九頭龍川の支流日野川の流域にあり南北朝時代(1336年)からの「杣山(ソノヤマ)城」の史跡がある杣山城は爪生氏から所領が斯波氏に移り、朝倉氏が斯波氏を討って所領とした。
産業としては農林業が主で特産物としてジュネンジョ(長芋)・花はすがある。
今庄地区
日野川の上流の町で木の芽峠と栃の木峠にかかる北陸道(現365号)の滋賀県に至る要所で江戸期には越前藩・加賀藩の本陣があった。農林業が主で特産としてはシイタケ・エノキ茸・そば等がある。
河野地区
Aの項で少し記したが南越前町の国定公園は旧河野村である。この地区は越前町、武生市、敦賀方面への生活道路としての役割を担っている。
また、河野村は、「北前船の歴史村」として知られている。 目の前に広がる日本海は北前の海とも呼ばれ、江戸後期から明治初期この海を舞台に物流産業は栄え有望な人材を育てた。日本海五大船主「右近家」、「中村家」や多くの船頭、水夫たちである。
国道305号線沿いには、右近家、中村家が建ち並んでいる。 産業としては漁業であるが梅も栽培している。
特産物は越前蟹・へしこ・梅の加工品(梅干・梅ドリンク・・・)また「越前杜氏」としても名が高い。
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越前町
越前町は、福井県嶺北地方の西端に位置し西は日本海に面し、東は鯖江市、南は越前市、南越前町、北は福井市にそれぞれ接している。
地勢的には、その大半が丹生山地に属し、全体的に標高は高く、沿岸部から北部にかけて500m級の山々が連なっています。このため、林野率は74.8%と高く、東部に広がる越前平野を除けば、中央部の織田盆地や宮崎盆地などに小規模な平地を残すのみで、耕地面積は少なくなっています。また、沿岸部の山を分水嶺として、東側は大半が天王川流域で、沿岸部は梅浦川など複数の小河川の流域となっています。天王川流域では、山地の間を縫うように小規模な谷や盆地、河川が入り組んでる。海岸段丘に、漁業集落があり、イワシ・サバなど漁獲、越前かに・ウニを特産とする。越前岬一帯はスイセンの群生地であり、12月〜2月越前岬・四ヵ浦海岸などは美しく咲き誇る。夏は海水浴場も賑やかである。http://www.towninf.co.jp/p/18/120250/index.htm
10数年前旧織田町を訪れたことがあるが、町の老婆が「ここは織田信長が生まれた所です。それで織田町と言う」?半信半疑、後で調べたら織田氏の先祖はこの町の氏神「剣神社」神官として仕えていたとか(時代は不明)
特産品として「とどだし」とよばれる醤油があり日本3大醤油「しょっる(秋田)」「いしる(能登)」「いかなご醤油(香川)」に負けず劣らずとか!
http://www.totodashi.com/towa.htm
越前陶芸村
旧宮崎村に広大な敷地をもつ陶芸団地がある。越前焼(別名織田焼き)の研究開発・生産を行っている
http://www.echizentogeimura.com/info_j_01.html
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D坂井市
2006年3月20日春枝町・坂井町・丸岡町・三国町が自治地区制度による大合併で旧坂井郡は消滅した。
そして人口規模(92000人)では福井市に次ぐ二番目の坂井市が誕生した。
織豊時代に柴田勝家の養子、柴田勝豊が1576年築城した城である。一向宗が完全に勢力を失った後、坂井郡一帯を領有した丸岡城々主青山忠元(4万6千石)は慶長5年(1600年)関が原の戦いで西軍に属したので徐封となった。関が原後、越前一国を68万石の大封を受けて結城(松平秀康が北ノ庄入部し秀康の家臣今村盛次が2万5千石を与えられ丸岡に在城した。 丸岡城は日本最古の天守閣且つ一番小さな城郭である。丸岡町のシンボルであり、国の重要文化財に指定されている..丸岡城天守は、福井大震災による倒壊後の昭和30年(1955)に再建されて以来、昭和48年・昭和56年と部分的な修理を行ってきましたが、長年の風雪に晒され各所に破損・腐食が進行しているため、平成15年(2003)3月〜9月11日まで、国・県の補助を受けて部分修理を行いました.。
秀康が没すると徳川家康の家臣本多成重が付け家老として下総井原(3千石)から4万石に加増され丸岡城に入封した。重成は越前松平家の重臣に起きた「久世騒動」を治めるため幕府から派遣された人物であるが重成の尽力にもかかわらず、越前藩主松平忠直の乱行のかどで改易となった。(この時越前藩は68万石が半減された)本多重成は幕府に召し返され、あらためて丸岡周辺4万6千石を幕府から与えられ「譜代大名丸岡藩」が成立した。
本多氏は4代続くが、藩政が内紛・一揆により悪化し幕府の介入1695年j除封となり鳥取新田藩預けとなった。
本多氏除封のあと越後糸魚川(天領)から有馬清純が5万石で準譜代大名として入封した。
有馬氏は8代176年間在封するが4代誉純は寺社奉行・若年寄に任ぜられ幕政に参画し8代道純も老中職まで登 り幕末の多難国事奔走するかたわら欧米・ロシアの南下、列強の侵攻に備え領内に「海防の砲台」(画像左:国指定文化遺跡)を築き、洋式砲術の導入にも努めた。明治維新期には丸岡藩は「北陸道鎮撫使」の指揮下に入り官軍に帰順した。
日本一短い手紙と呼ばれる「一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ」は、徳川家康家臣で戦国武将本多重次が妻や息子仙千代、後の初代丸岡藩主本多成重のために送ったものである。このことから、「一筆啓上」の発信地として丸岡町は毎年日本一短い物語(日本一短い手紙)の募集、授賞式などが行われている。この一筆啓上のイベントは全国の自治体主催の公募イベントの先駆であり、全国で同じような公募が行われるきっかけとなった
丸岡町福井市のベドタウン的な存在であるが戦前から繊維工業がさかんで、人絹、特に細幅織物の産地として知られ、全国生産高の約8割を占めている。農業もおこなわれ、米・野菜類が産出される。他に「越前竹人形の里」がある。
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春江町・坂井町
春江町・坂井町は、福井県北部に広がる坂井平野の中央に位置する、丸岡町同様福井市の近郊のためベドタウン化している。
九頭竜川の豊かな水.と肥沃な大地に恵まれた県下随一の米どころで近年は、交通網の整備にともなう商業ゾーンの形成や生産性の高い企業の誘致に積極的に取組み、農業と商工業との調和のとれた町として発展してきている。
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三国町http://www.mikuni.org/
福井県北部九頭龍川河口をしめ中心は右岸にあり北前船も寄港する沿岸航路要港であったが北陸有数の漁港(画像左)として発展した。現在は越前がにやアマエビの水揚げで知られる湊町。mikunigyokou.jpg へのリンク湊付近の狭い路地には昔ながらの町並みがある。この町並みは「官庁通」と呼ぶそうだが、宮内庁はjめ官公庁にカニや魚貝類を官公庁に納める商店が立ち並ぶことから呼ばれているようだ。
御用納めが12月24日の過ぎるとカニの値が下がり買い時とか?なお、日本海で取れる「越前蟹」の呼称はこの辺りまでである。
その北の東尋坊、雄島、越前松島と景勝が続く海岸はもとより、海水浴場・キャンプ場・松島水族館や各種の娯楽施設や寺社仏閣・祭事などがあり観光に訪れる人が多い。
三国町は歴史的な建造物も多い瀧谷寺(左)・旧森田銀行(右)・龍翔館http://www.fuku2.co.jp/ryuusyoukan.html 成田山九頭竜寺・横浜市開港記念館(重文)等々がある。
また、丸岡藩が築いた「砲台跡」も三国町海岸にある。
「義経」の伝説は全国各地にありますが三国町に大湊神社があり、義経の残した兜が奉納されている。義経の北陸逃避行で北陸では三国町からの伝説が知られている。越前での義経伝説を下記表を参照。
C福井市の項で記さなかったが福井城祉公園に「岡倉天心」http://info.pref.fukui.jp/tenshin/
の銅像があったが天心の母は三国湊の出身で岡倉天心はこの三国町で出生したとある。又、作家の「高見 順」もこの町の出身地である。
特産物は越前カニは勿論のこと多種の魚魚貝類、それに全国で名高い「三年堀花ラッキョウ」が有名。(右画像は秋に咲く花ラッキョウ畑の花)
越前国の「源 義経」伝説
(参考)北陸3県に伝わる義経伝説・遺跡→「日本史十八の謎を解く」(能坂利雄)のリスト。
| 「義経あら血の岩」 |
荒乳山を越え関所の難を避けたとき、新しい血でワラジが染まり、岩が血染めとなったという伝説。(敦賀市) |
| 「荒乳の抜け穴」 |
義経を捕らえようとしたが、穴から抜けていった。(敦賀市) |
| 「平泉寺の鐘」「法螺貝」 |
平泉寺の鐘を撞き、同時に弁慶が走り出し、音の聞こえなくなるまで早足を試したら、数里隔てた所まで来ていたという弁慶の韋駄天さを伝える伝説。白山の平泉寺詣での礼に、義経が法螺貝を置いていった。 |
| 「弁慶足あと岩」 |
平泉寺から白山まで走った時の弁慶の足あとの岩。(勝山市) |
| 「一夜泊りの穴」「熊野山」 |
いずれも義経主従の宿泊伝説地。(敦賀市) |
| 「三枚切岩」 |
義経が試し切りに三枚の岩を切った。(武生市) |
| 「抜け穴」 |
奥行が、30メートルもある。ここから義経一行が通り抜けた。(坂井郡三国町) |
| 「試し切り岩」 |
義経が名刀で試し切りをした。(坂井郡三国町梶) |
| 「だんご岩」「義経の膝つき池」 |
朝倉山の南の松谷の地。弁慶が岩に箸をたててだんごのように丸めて山の上から投げた。また義経主従が土運びをしていた時、義経が力果てて膝をついた。そこが池になったという伝説。 |
「義経の矢立岩」「弁慶岩」
「丸山」 |
義経を守るために弁慶が徹夜した。岩の上で立番していたところに足跡がついて、できたのが松丸の弁慶岩。また矢立てで書類を認めた岩が、義経の矢立岩。腹の減った弁慶が岩を丸めて食べ、落としてできたのが丸山。(大野市) |
| 「弁慶の馬あと岩」 |
弁慶の乗っていた馬の足跡が岩に残された。(吉田郡永平寺町吉波) |
| 「きびす塚」 |
弁慶が踏んだカカトが、岩の窪みとなった。(坂井郡丸岡町) |
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Eあわら市
福井県の北端に位置し、石川県と接する平野部にかけて広がる市。 2004年3月1日、当時の坂井郡のうち北陸地方有数温泉の芦原町(古来は北陸道の宿場町)と、古来より越前の北の玄関口であり、西方は越前海岸国定公園で現在では遠方から芦原温泉・東尋坊などへの接続点となっているかつての宿場金津町が2004年3月合併し誕生した。
明治17年(1884年)たんぼから温泉が湧き出し関西地区の「奥座敷温泉」街(左画像)として発展する。
しかし、昭和31年(1856年)大火が発生し旅館16軒と民家308戸を焼失した。現在は福井県随一の温泉地として多くの観光・ゴルフ・温泉客で賑やかである。
北潟湖 は県内三番目に大きな湖で季節(6月中旬)になると「菖蒲園の」花菖蒲で賑わう。(画像右)
吉崎御坊 は越前吉崎にあった坊舎で現在は西本願寺の別院、本願寺派の吉崎寺と大谷派の願慶寺などの寺院がある。また、記念館・資料館もある。 西本願寺別院の山門は京都西本願寺から移築されたものときている。
吉崎御坊には、肉付き面の伝説が残る。蓮如の話を聞きに何度も吉崎に通う嫁を姑(しゅうとめ)が般若の面をかぶって威かそうとしたところ面が取れなくなってしまったという話だ。
この吉崎御坊はあわら市吉崎町(110世帯)であるが、もう一つ隣接するの町石川県加賀市吉崎町(45世帯)がある。 国境(県境)は山(峠)や川などにより境界線としているが、ここは地(道路)続きである。 現在では隣の家に電話する時は双方が市外局番からダイヤルしなければならない。
小学校はあわら市吉崎町の住民は地元の小学校で教育を受けるが、中学校となると通学距離の関係上、石川県加賀市立の中学校で義務教育を受ける(福井県は石川県に教育委託料を支払っているとか)。
また、あわら市吉崎町の中学生の高校への進学は殆んどが石川県の高校へ進学する。
この変則状況は国境は加賀国が越前国から分離独立(823年)した時から定められていたが吉崎御坊の門前町として発展した現象であろう。 このような変則現象は全国で数箇所あると聞いているが平成の大合併で解消した自治体もあるようです。
さて、吉前町の国道305号線に福井県と石川県の県境を示す標識があるが、あわら市吉崎町から一歩またいで石川県(加賀国)加賀市吉崎町に入る。
※福井県出身の有名人
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| 《石川県(加賀・能登)》 |
国道305号線から北陸道加賀IC・国道8号線に向かい越前国と接する加賀国・能登国を下る。
石川県(石川県市町村一覧)は加賀と能登に分かれ現在は加賀地区は加賀南・加賀北と能登(口能登・中能登・奥能登)に行政区分されている。また、石川県内は平成の大合併で奥能登柳田村を最後に村の呼称は無くなった。
加賀国は823年越前国の江沼郡と加賀群を割いて加賀国として独立し律令制度最後の分国(石川県[国]は一番新しい国なんだ!)とされ、国府は小松(市)古府町に置かれた。
分国独立後の守護は
鎌倉時代・・・比企氏→名越氏→北條氏一族
室町時代・・・富樫氏→斯波氏→赤松氏→富樫氏
室町時代後期戦国時代に入り、長亨2年(1488年)富樫政親が一向一揆で敗れ自害し、以降1580年織田信長に滅ぼされるまで約100年間一向宗が統治する。
戦国期に入り織田信長軍団の北軍:柴田勝家を筆頭に堀 秀政・前田利家・佐々成政・佐久間盛政らの武将による北陸;「加賀・能登一向一揆(利家の甥:佐久間盛政の活躍で尾山御坊を陥落後、賎ヶ岳の戦で盛政は戦死、)」の平定で前田利家は天正9年(1581年)能登一国を与えられたが、 信長の死後豊臣秀吉に臣従し賎ヶ岳の戦の戦功により佐久間盛政に代わり、天正11年(1583年)加賀国石川・河北両群を加封され能登七尾城から金沢(尾山御坊:金沢御坊)に移り加賀藩の始祖となった。加賀藩歴代藩主.xls へのリンク
慶長3年(1598年)利家が隠居し、跡を嫡男利長継いだ。利長は2年後の「関が原の役」では家康に属従し、役後の功績により加賀・越中・能登120万石を領有したが、慶長10年弟利常に封を譲った。
利常は、大藩の当主として徳川幕府との関係に万全の注意をはらい、農政をはじめとする藩政諸般の基礎を確立した。 利常は1639年「小松城」に隠居するにあたり、長子「光高」に跡を譲り、次子「利次」富山藩10万石、三子「利治」に大聖寺藩7万石を分封し支藩としたので宗藩は102万5千石となった。「光高」以後、加賀藩は100万石の外様大名の大藩として廃藩置県まで14代約288年間にわたり在封したが、しかし幕末加賀藩にも勤王派が台頭し「尊壌運動」が展開されたが、保守派の圧力により殲滅された。
結局は指導者層の無知と無気力のなすわざで、100万石の大藩にして時勢に乗りきれず、明治維新政府の主流とはなれなかった。
江戸期に入いってからの加賀藩は代々の藩主が現在の「伝統工芸」を産業振興に取り入れ、今も伝統工芸が盛んで京都を除くと多くの「人間国宝」を擁している県である。
また、この石川県も福井県同様、源平合戦・義経伝説・一向一揆・戦国期と歴史に関わりが深い県である。
<参照2>石川県の義経伝説・源平ゆかりの地
<参照2>
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@加賀市
国道305号線と国道8号線に接する一帯は加賀市熊坂町だが、大盗賊「熊坂長範」はこの地で生まれたとの伝説がある。 この熊坂長範は平安時代末期に名を轟かせた盗賊で奥州へ向かう元服前の牛若丸に斬り殺された。
熊坂長範の伝説は各地に伝わっているが、単なる盗賊ではなく、貧しい人たちを助けた義賊として語り継がれている。 福井県と燐接する加賀市は石川県の西南部に位置し、2005年10月1日山中町と合併し山城・山中・片山津温泉郷を有する全国有数の観光温泉都市となった。市庁は大聖寺町にある。
南北朝時代に「錦城山城(大聖寺城)築城され、信長の時代に北陸の一向一揆を鎮圧平定後、柴田勝家の家臣が入り豊臣秀吉による天下平定後には1583年秀吉の家臣で溝口秀勝(新発田に配置移封)が堀 秀政の与力大名として大聖寺藩に入封した。
1598年溝口秀勝のあとには小早川秀秋の元家臣の山口玄宗永(1599年)が入る。 しかし、1600年山口玄宗永は関ヶ原の戦いで西軍に付き篭城し、東軍前田利長に攻められ敗戦、山口玄宗永は自刃し城は落城した。
落城後は加賀藩主:前田利長が徳川家康から南加賀を預けられ、大聖寺城代を置く。
寛永16年(1639年)加賀3代藩主前田利常は長子光高に封を譲り隠居し次子、前田利次に富山10万石、三子前田利治に「大聖寺7万石(後加増され10万石)」を分封し、大聖寺藩は外様の加賀藩の支藩として成立した。
前田利治は家臣を適材適所に統制し藩政の基礎を築くとともに、産業開発にも力をいれた。利治の弟で跡嗣となった利明は大聖寺川の治水・新田開発・紙漉き・茶などによる新産業に功績を残し、その後、藩の産業は 北前船(画像:2006.9復元青森沖で航海実験中の北前船)との交易や絹織物・山中塗り・九谷焼の復興など目覚しく、14代利鬯の廃藩置県まで約230年間にわたり在封し幕末には加賀藩に歩調をあわせ終始みずから積極的に動くことなく廃藩を迎えた。 なお、江戸中期元禄5年(1692年)前田利昌が能美郡内の新田1万石分与され「大聖寺新田藩」として立藩したが藩主利昌が将軍綱吉の葬儀の時、上野「寛永寺」の宿坊で大准后使饗応役の織田秀親(大和柳本藩主)を刺殺したので切腹を命じられ、廃藩となり一代で大聖寺新田藩の領地は大聖寺藩に還付された。
<源平ゆかりの地>篠原古戦場・実盛塚・鏡の池
<義経伝説>尼御前岬
<加賀市の概要と産 業>
繊維工業・機械工業(機械工業は、昭和30〜40年代に創業した企業が約7割と、比較的新しい産業といえる。繊維工業と比較して企業数は少ないが、相対的に企業規模が大きく、大同工業鰍はじめ、褐諮ッ製作所、轄]沼チヱン製作所、東野産業鰍ネどに代表される。また加賀市で生産するチェーン・スポークはシェア日本一である。 一方、近年は企業誘致などにより電気機械・繊維機械分野の発展が著しく、時代の情勢を反映しているといえる)
<伝統工芸>
九谷焼と山中漆器であり、両産業とも歴史的伝統からその名は全国的に知られている。 世界に誇る名陶、九谷焼は、今から、約350年前、大聖寺初代藩主の前田利治が、家臣の後藤才次郎に命じて加賀江沼郡西谷村九谷で焼かせたのが始まりといわれる。その後、窯は約40年で廃絶し「古九谷」は今も多くの謎を秘めたままである。それから、約130年後、大聖寺の商人豊田伝右衛門が山代に「吉田屋窯」を興し九谷焼を再興する。その後も、「宮本屋窯」「永楽窯」「松山窯」など歴史上重要な窯が、その時々に作風を変え、生まれては消えていった。加賀市の九谷焼は、江沼九谷と呼ばれていた頃から、多くの名工と品質の佳良で知られ、今日も山代・大聖寺・勅使を中心に、優れた作家や名窯がその伝統を受け継いでいる。伝統の九谷五彩を特徴としながらも、現代の創意を加えた多彩な表現で、全国でも高い評価を受けている。
<その他の産業>
大聖寺藩10万石の伝統から茶道が盛んな地であり、数多くの銘菓を生み出している。一方、近年にはこれらの伝統を下地に、温泉(山代・山中・片山津)を中心とする観光産業の発展にともなって、土産品としての菓子が急速に発展した。現在200人を超える企業もあるなど大型化しており、市内のみならず各地に販路を延ばし全国的にも大きなシェアを誇っている。
また、古い伝統とたくみな技術を誇る加賀瓦は、現代の和風建築様式にもよく調和し、色瓦は県内だけでなく、全国的に支持されています。
※民謡「山中節」は北前船の橋立港、寄航時に船乗りたちが山中温泉に湯治休息し、船頭達が歌っていた北海道の「江差追分」が元歌だといわれている。
- 国定公園
加賀海岸、鹿島の森、鴨池、自然遊歩道、サイクリングロード、加佐岬、尼御前岬
- 名所旧跡
全昌寺、実性院、長流亭、寺尾観音、明覚の墓、万松園、法皇山、古墳、実盛塚、首洗池、柴山潟、鴨池観察館、北前船の里資料館、雪の科学館、酒蔵資料館
- 姉妹都市
新発田市(新潟県)、赤平市(北海道)
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A小松市
加賀市の国道8号線をしばらく走ると国道の両側は「観光土産」の店々が立ち並ぶ、小松市内に入る8号線は10年前は何時もドライバーには渋滞地獄と呼ばれていた。しかし山手側にバイパス道(産業道路)が開通してからは渋滞が緩和したようだ。
小松市は加賀国の国府の置かれたところであり、北陸道の宿場町であった。
平安中期に花山法皇が北陸巡幸の際、この地に稚松を植えたことから「園の小松原」と呼ばれるようになった事から「小松」となった。または、「小松殿」と称された平重盛(小松内大臣)が建立した「小松寺」に由来するともいわれている。
戦国時代の1576年に一向一揆の豪族武将の頭目、若林長門が小松城を築城したが、織田信長の命を受けた柴田勝家が攻め落とし、村上義明が城主として入封。その後、義明は越後村上(新潟県村上市)に移され、丹羽長重(長秀の嫡子)が松任・小松12万石を領有し、小松城に入封した。
しかし、1600年「関ヶ原の戦いで西軍豊臣側に属した長重は、浅井畷(小松市大領町)で金沢城主:前田利長との合戦に降伏し、小松城は前田利長の所領となり城代が置かれた。
一国一城令で一旦廃城となった小松城でしたが、1639年に幕府から特に認められ、加賀3代目藩主・前田利常の隠居城として復活し、金沢城との併存が特別に許された。利常は、増築・大修築を施し「小松の浮城http://www15.ocn.ne.jp/~siro-pat/isikawa/komatu.htm」と呼ばれる城郭に変貌させ、城下町として発展した.。
<小松市の概要と産業>
石川県西南部に広がる豊かな加賀平野の中央にあって、産業都市として発展し、一つの都市圏を形成している。
小松の東には、霊峰白山がそびえ、そのすそ野には緑の丘陵地、そして、田園、平野が広がっています。それを縫うように梯川が流れ、西へ豊饒の安宅の海に注いでいます。 安宅の関近くには、日本海側最大の小松空港を有し、国際化への整備を進めています。
北陸自動車道、国道8号、小松バイパス、加賀産業開発道路、JR北陸線が南北に走り、国道416号線、小松−下吉野線等が東西を結んでおり、高速幹線交通網と情報通信体系などの整備をより一層進め、更に機能的で、魅力にあふれる都市づくりをめざして、努力が続けられている。
産業機械大手で建設機械のシェア世界第2位の小松製作所(コマツ)の本拠地である。
そのためいわゆる企業城下町となっており、小松市とその周辺は日本有数の機械工業の産業集積地域であると言われる。 コマツ以外に村田製作所も・ジェイバス・コマニー・コマツウオールなどの事業所がある。
また、小松市内ではないが近隣には東芝・ソニー・松下電器・ナナオはなどの事業所があり、その関連企業が小松市を含む南加賀地方に集積している繊維産業も盛んで小松精練・帝人・東レなどの事業所があり、その関連企業が無数にある。このように機械工業・繊維業が盛んなので、小松市とその一帯は北陸随一の産業地帯としてのイメージが強い。イグサの生産の北限であり、そのイグサを使用した畳は「小松表」の名で知られてる。 また、加賀絹や九谷焼などの伝統工芸の産地としても有名である。 明治から昭和にかけて尾小屋鉱山で胴の採掘が行われていた。
≪観光・祭・その他≫
・ お旅まつり (5月中旬)
・ 小松「子供歌舞伎」
・ 航空自衛隊小松基地(小松空港併用)
※ F15戦闘機(画像):小松基地をスクランブル発進し、領海区域(福岡沖・朝鮮領海〜佐渡沖)を25分で哨戒 旋回帰基地するそうです。
1機80〜100億円 する とか。
●名所・旧跡
●温泉
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B能美市
平成17年(2005年)能美郡の根上町・寺井町・辰口町の三町は平成の大合併で成立した市である。
この市は今様でいえば、「神の国」発言で話題を起こした、第85代・第86代「総理大臣:森 善郎」および読売ジャイアンツ・ニューヨークヤンキースの松井秀喜(いずれも旧根上町)の出身地として全国的に有名で、根上町、九谷焼や古墳群で有名な寺井町、辰口温泉といしかわ動物園の所在地として知られる辰口町という能美郡全域が市となった。
新市名称をめぐって行われた住民アンケートでは「松井市」や「ゴジラ市」といった松井秀喜氏にあやかったものも上位にランクインしたが、最終的にはアンケート1位であった能美市に落ち着いた.
歴史をみれば能美郡一帯は領有者は加賀藩とほぼ同様であるが、地理的には一級河川「手取川」をはさんで南岸側にあり戦国期の天正5年(1577年)に越後の関東管領「上杉謙信と織田信長の「手取川合戦」があったことはあまり知られてないが、「手取川の戦い」は織田軍団の羽柴秀吉軍の離脱したため敗北退却したとあるが、戦史の資料が乏しい為か架空説もある。
「手取川合戦」についてはhttp://www5b.biglobe.ne.jp/~yoropara/tishiki/ks00308.htmをクリックして参照ください。
<主な産業(事業所)>
農業が主体であるが大手の企業を誘致している。
○主な事業所
○文化施設等
- 松井秀喜ベースボールミュージアム
- 能美市九谷陶芸村
- 九谷焼陶芸館
- 九谷焼資料館
- 浅蔵五十吉美術館
- 石川県立九谷焼技術研修所
- 能美市歴史民俗資料館
- 能美市立博
※北陸先端科学技術大学院
○観光・名所その他
- 和田山・末寺山史跡公園
- 秋常古墳
- 辰口丘陵公園
- 七ツ滝
- 蟹淵
- 遣水観音山
- 灯台笹遺跡
- 根上隕石記念碑
- 弁慶謝罪の地 (道林寺跡)
- 根上松(源平古戦場跡)
※辰口温泉http://homepage3.nifty.com/kawasaki-onsen/page419.html
能美市を境とする手取川の対岸は能美郡川北町と白山市であるが辰口町の産業道路から新手取大橋を渡り川北町を訪ねる。
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C川北町
・加賀平野最大の河川「手取川」扇状地の右岸に沿って拓かれた平坦で肥沃な平野と豊かな水資源に恵まれ農業地帯米作が中心だが近年ではメロン・イチジク・シイタケ栽培も行い発展してきた町です。
・歴史的には一向一揆を経て知行は加賀藩の領有地である。
生活環境整備においては、下水道と集落内道路の消雪整備は100%整備されています。又町民の負担軽減に努め公共料金の一番安い町を目指し、町民が安全で安心して暮らせる町づくりに邁進しています。
・沿革
1907年8月能美郡内の3村が合併して川北村が成立
1980年県の町制施行基準の変更を受け町制施行
昭和30年頃の昭和の大合併では、川北村を3分割して東部の中島地区を鶴来町へ、中央部の川北地区を松任町へ、西部の橘地区を美川町へそれぞれ合併する計画があったが、調印直前になって当時の村長が公印とともに失踪する事件があり、分割合併が中止になった。
また、平成の大合併でも同調のきざしが当初から見られないこともあり、根上町・寺井町・辰口町で発足させた合併協議会に後から参加し、早々に撤退した経緯もある。
・産業手取川の豊富な伏流水を利用する電子部品工場が立地している。 町の財政もこれらの企業からの税収により成り立っているという。
また、同町にある「プラント3」川北店:本店福井市(同町朝日)が商業施設の売り場面積の99%以上をが占めている。
また、大手電機メーカー東芝・松下デスプレイテクノロジイ石川工場 - 液晶デスプレイ(TV/PC用など)の製造工場が進出している。
・伝説の人物 草深甚四郎
南北朝時代、活躍した剣豪で、藤原氏の後裔畑時能の子孫と伝えられている。 深甚流なる一派を編み出し多くの子弟を養育した草深甚四郎(くさふか じんしろう) 生没年不詳
加賀国草深村(現石川県能美郡川北町)生まれの剣豪。一説によると塚原ト伝来遊の際に立ち会い、剣では敗れたが槍では勝ったと伝えられる。その他の事績は不明。
(左画像草深甚四郎の墓)
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D白山市
白山市(はくさんし)は、加賀国南の部に位置する市る。県内で最大の面積を誇り、人口でも金沢市に次いで2番目となる。南部は自然豊かな山々に囲まれ、日本三名山の白山を有する。市域に沿うように県内最の大河川である手取川が流れ、河口から日本海へと注ぐ。 北部は金沢市の南郊に位置することもありベッドタウンして人口が急増。住宅都市化が進むとともに、農林業から工業都市としても急成長している。歴史的には川北町同様一向一揆を経て知行は加賀藩の領有地である(左画像は白山の日の出)。
成の大合併では面積・人口面で県内最大である。
その誕生の沿革は
- 法2003年2月定協議会(松任・石川広域合併協議会)設置。
- 2005年1月河内村、吉野谷村、鳥越村、尾口村の各村で閉村式が行われる。
- 2005年1月松任市、美川町、鶴来町、白峰村の各市町村で閉市町村式が行われる。
※1松任市を中心とした各町村の紹介についてはリンクをクリックしご参照下さい。
※2白山市の紹介
白山市までは国道8号線を軸にたどってきたが、北前船の寄港先美川町(美川町は江戸時代、北前船の寄港地として栄え、美川仏壇は北海道にまで販売されました)から能登国の寄港先周辺の市・町を訪ねる。
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旧北陸道は京都〜越後新潟・山形の県境(念珠ヶ関)までと述べたが、律令制度では能登国と佐渡国も含まれる。そこで白山市美川港から次ぎの寄港先、金沢市大野港を訪れる。
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E金沢市大野町・金石
大野港・金石:金沢港は金沢市の大野川の河口に所在する重要港湾である1970年
開港。釜山、ニューヨーク等に定期船が就航する。係留施設総延長 5,188m(2000年)
<歴史>
大野・金石は古代においては、「大野湊」として『白山禅頂私記』の伝説に登場する。その後戦国時代から江戸時代初期にかけて近接する犀川河口の宮腰(みやのこし)の繁栄に押されていたが、北前航路の隆盛にともない享保の頃には金沢の外港としての地位を築いた。北前船全盛時代に明治は時代後期まで続くが鉄道の普及と共に衰退する。 大正時代に入り大野港を漁港として発展させようとする動きが起こるが大正12年(1923)大野町町長「光谷次郎松」が、金沢港として貿易港として発展させる構想を発表。帝国港湾協会の後援もあり、昭和8年には金沢港築港が閣議決定され昭和10年には大野町が金沢市に編入され、いよいよ着工が期待されたが、第二次世界大戦により棚上げされた。
戦後も長い間棚上げされてきたが、昭和38年(1963年)の三八豪雪により北陸地方の陸上交通がほぼ完全に途絶えたことから急速に建設の気運が高まり翌年には、重要港湾として12ヶ年計画で建設が進められた。当時としては珍しい掘り込み式港湾であり浚渫された土砂は河北潟の干拓工事に使用された。
※昭和38年の北陸地方の豪雪は人口集中都市金沢の主要幹線・市街地道路・鉄道・自動車・港(当時海路は大野・金石魚港)の全てが遮断され日常の生活物資の不流通が1ヶ月以上も続き「雪の孤島都市」となり生活に困窮した。
市民は毎日が除雪作業であった。この年政府は「特別災害救助法」を適用した。
現在金沢港は日本海側の港として貨物量は2万・新潟港10万・富山伏木港港4万TEUと大きく引き離されている。国と県は金沢港を水深10bから14bまでに「岸壁水深掘り下げと護岸工事」を行い2018年までに4万TEUに倍増し日本海側唯一の北米定期航路を活性化するとしている。
・大野町の見どころ
・銭屋五兵衛について
・大野湊神社と義経伝説
次の「北前船」は富来港(志賀町)を訪れる。 |
F志賀町
<旧富来町>
能登半島の中央西部(中能登)羽咋郡にあり、大部分は丘陵地で、富来川河口部が中心で南部の福良湊は江戸時代日本海海運の要港であった。
水産業のほか、蔬菜・タバコを産する。福良付近の海岸は景勝の能登金剛がある。
<歴史と沿革>
縄文・弥生・古墳時代の遺跡が存在する。
9世紀初頭、富来町の福良津(現在の福浦港と比定される)に渤海使の為に客院を置いたことが日本後記に記載されている。この福浦港は、能登半島の外浦屈指の良港であったこともあり古くから近くを航行する船が多く慶長年間から近くに住む日野家が代々かがり火を焚いて航路の安全を見守ってきたが、元禄年間には灯明台が設けられ更に明治9年(1876年)には、日野家当主
吉三郎によって木造の灯台が建設され昭和27年(1952年)まで使用された。
*1954年8月町村の新設合併で富来町が誕生する。当時の人口16,070人
*2000年・国勢調査の人口が10,000人を切る。(9,715人)
*2005年8月志賀町との合併に向けて閉町式が行われた。
<旧志賀町>
志賀町の中心部は高浜で瓦を特産物で漁港安部屋は福良港とゝもに近世北前船の港、安部屋布産地として栄えた。
海岸部は旧富来町とも能登半島国定公園に含まれるまれる。
次は門前・輪島に寄港 |
輪島市
(旧門前町)
門前町地区(もんぜんまち)は能登半島の北西部奥能登に位置し総持寺の門前町として発展し本山総持寺1898年焼失でしたため曹洞宗大本山總持寺は横浜に移り当地は祖院としての存在で知られている。
2006年2月に隣接する輪島市と新設合併し、輪島市となった。
門前町は能登国に1321年漕洞宗大本山聡持寺祖院ができた経緯から加賀藩では唯一の「徳川幕府」の天領地で門前町の小さな港ではあるが北前船が寄港した。
農林業・漁業が主で能登半島国定公園に属し「猿山岬」「琴ヶ浜」がある。また県内で高齢者が30lを超える地域でもある。
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(旧輪島市)
当項目を書き込む約3週間余前平成19年(2007年)3月25日(日)9時42分「能登半島地震」が発生した。
発生当時の報道機関の地震の概要は
1人死亡、170人けが
25日午前9時42分ごろ、北陸を中心に強い地震があり、石川県の七尾市、輪島市、穴水町で震度6強、志賀町や能登町などで震度6弱、珠洲市で震度5強を観測した。新潟、富山両県で震度5弱を記録した。
石川・能登で震度6強・1人死亡、170人けが
輪島市内で女性1人が死亡。総務省消防庁によると、石川、富山、新潟の3県で計170人が負傷、石川県では住宅272棟が全半壊した。輪島市では住民1000人以上が避難。能登地方では、国道などでがけ崩れや陥没が相次いだ。
気象庁によると、震源地は能登半島沖で、輪島市の南西約30キロ、震源の深さは約11キロ。地震の規模はマグニチュード(M)6・9と推定される。能登地方では震度4を含む100回以上の有感の余震を観測。石川県の能登、加賀の沿岸に一時、津波注意報が発令され、一部で10−20センチ程度の津波を観測した。
気象庁は「今後震度5クラスの余震の可能性がある」と警戒を呼び掛けた。
被害の最も多い輪島市門前町は山間部で、全国でも高齢者率が44.9lと最も高ところで、住宅も老築化した過疎地である。
被災地では約1万世帯が断水している。 病院では水不足で治療も満足にできないらしい。
金沢市内は震度4を午後3時頃に余震3を記録している。
<地震画像>
※「亥の年は大きな選挙と大地震が発生するらしい。大正12年(1923年)9月1日「関東大震災」・平成7年(1995年)1月17日・・・
全壊した「興禅寺」 高齢者の避難所(門前)

関野鼻付近 陥没した道路
旧輪島市は
能登半島北端のしである。1954年市制、中心市街は鳳至川と河原田川の三角州上にあり、漁港として発達した「北前船」の寄港地で季節的に移住する海女の住む海士(アマ)町がある。東郊の「高洲山」山麓白米(しらよね)の」1千枚田」が展開し有名である。重要文化財「時国家」や「曽々木海岸」など「能登半島国定公園」に属すする観光地があり奥能登の観光基地となっており輪島市内の通りで開かれる「朝市」は「輪島塗」同様有名。
「輪島の観光」Clickしてください
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